雑記

思い返すと、僕の高校時代は幸せだったんだなあと思う。

 

例えば、昼休みに友達と話しながら弁当を食べたりとか、学校から一緒に帰ったりだとか。

 

僕は、人見知りではなくコミュ障と言われているような人間なのだろう。

最初にあった時は会話が弾むのに、話していくうちにだんだんと疎遠になっていく。

それは最初は自分を偽って接していても、だんだんと接するたびにメッキがはがれるからなのだろう。

 

中学に入った時も高校に入った時もそうだった。

最初は結構好感触なのに、だんだんと人が離れて行って孤立する。

好感触とか思う時点でだめなのかもしれない。

ギャルゲーみたいに、相手の反応がいいセリフを選ぶように考えてしまう。

当然そんなのは長くは続けられないから、だんだん人と接するのに疲れてしまう。

 

そんな僕にも高2になると友達ができた。

向こうが友達と思ってるのかはわからないけれど。

自分からはクラスメイトとかって濁して、友達ってあんまり言わなかった気がする。

昼ご飯を食べたり、休み時間に雑談したり、文化祭の空き時間に大富豪をしたり、放課後に情報室でゲームをしたり、夜中に通話しながら宿題したり。

何気ない生活が楽しかった。

当時は自分であまり気が付いていなかったけれど。

あまり自分を偽らず接することができたからなのかなあ。

 

高校のころ違って今は、誰と接するときも自分を偽っているような気がする。

母親にも、友人にも、コンビニのアルバイトにも。

本当の自分を出せない感じがする。

だんだんと自分が死んでいく気がする。

人間の性格なんて、裏と表の2面ではなく多面的なものだと思うから、本当の自分なんてどこにもいないのだろうけど。

だけど、なんとなく、こうやってブログを書いている自分や、夜中にベッドでつまらないことを考えている自分を隠している。

そして、それに少し罪悪感を感じている。

誰かと接するたびにスイッチみたいに切り替わる自分が少し気持ち悪い。

 

大人になり切れない。

中学の頃は、周りより精神年齢が高いと思っていたけれど、いつの間に抜かされて、自分だけ変わってないような気がする。

みんなが当たり前にように通ってきたことを、いまさらになって考えてしまう。

普通に生活しているだけで、どっと疲れてしまう。

 

昔母親に、「テレパシーみたいに人の気持ちがわかればいいのに」と言ったら、

「わからないほうがかえって楽だ」って言われたことがあるけれど、

そうなのかもしれない。

何も気にせず楽に生きていくのと、葛藤しながら生きていくのとどちらが幸せなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Sakura addictionに漂う倦怠感(好きな曲紹介)

僕が好きな曲のひとつに、SPLAYというバンドのSakura addictionがある。

家庭教師ヒットマンリボーンというアニメのエンディングだった曲だ。

 

好きな歌詞はサビから入ったあとのAメロの

 

いつもの改札を 擦り抜けて行くあの子はそう
輝く目をして 毎日何か掴み取って行くんだ
ぼくはと言えば 何にも無い毎日繰り返して
苦いビール持ってさ 空けようかどうか悩んで夜が明ける

 

というところだ。

 

その中でも特に好きなところは「苦いビール」という部分で、

ビールに頼ろうとしているのに対して、まだビールを苦く感じているところに大人になり切れない若さが感じられて、妙な現実感があっていい。

 

また、彼女が毎日成長しているのに対して、自分は何もない毎日を過ごしているという表現が刺さった。

情熱を失ってしまいただ毎日を惰性で生きている人間が、周りの情熱をもった人間に劣等感を感じる気持ちが歌詞に現れていて、

同じ気持ちを持った自分を受け入れてくれたような気がしたからだと思う。

青年期の無気力さ、憂鬱さ、倦怠感の表現が俊逸だ。

YouTubeのコメント欄にも同じことが書いてあった)

 

個人的にこの歌詞とよく似ているのと思うのが、秒速5センチメートルという映画である。

この映画は三部構成になっているのだが、特に似ているのが3作目の「秒速5センチメートル」だ。

簡単に説明すると、主人公が子供のころ相思相愛だった女の子と両親の転勤で遠く離れてしまい、主人公が彼女との恋を忘れられぬまま大人になるというストーリーだ。

 

彼女が結婚し、主人公との恋を思い出にしているのに対して、

主人公は過去の恋にとらわれて、部屋にはビールの空き缶が転がり、落とした鍵を少しの間拾うこともせず、会社を辞めてしまうシーンではこの曲に似た倦怠感、無気力さが漂っている。

 

Sakura addictionに話を戻すと、2番以降の歌詞はこんな風に続く。

 

汚れたスパイクなら 心の奥に仕舞い込んだ
「これでいいんだよ」と
過ぎゆく春の逃げ道 探してるんだろう

無くして 諦めたボール
見つけてくれたのはきみでした

春が来る 咲き誇る グランドが風に揺れる
踏みしめて 泣き出した 溢れそう きみみたいな花

 

主人公は昔スポーツに打ち込んでいたが、現在は「これでいいんだよ」と諦めていた。

しかし、「毎日何かを掴み取っていくあの子」に影響されて、前に歩き出したことがわかる。

実際に彼がもう一度スポーツを始めたのか、別の道へ進んだのかはわからないけれど(後者のような気がするけど)、

過去の呪縛から解き放たれた感じがして、

1番では希望が見えないのに対して、2番以降で希望が感じられるのがよい。

 

ちなみにSPLAYというバンドはアルバムを2枚だけだして、10年ほど前に解散してしまった。

僕は倦怠感の漂う、諦観的な歌詞が好きなので、このような表現ができるアーティストが解散してしまったことを残念に思う。

www.youtube.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログの名前の由来

今日からブログを始めることにした。

日記代わりに適当に書いていこうと思う。

 

初めにどんな記事を書けばよいのか迷ったが、無難にブログ名の由来についてにする。

 

僕は「空が灰色だから」という漫画が好きだ。

特に現実感漂う題名に惹かれた。

 

例えば「空が青色だから」とか「空が黒色だから」だったらあまり感じるものはなかったと思う。

青色であればスポーツ漫画のような明るい話だと連想できるし、黒色であれば憂鬱な話だと連想できるように、題名としては普通だと思う。

だが「空が灰色だから」には漫画らしくない雰囲気が漂っている。晴天でも豪雨でもない、明るくも暗くもないところに現実的な雰囲気がある。

 

世の中で日常を送っている大半の人は明るくも暗くもない生活を送っていると思う。

時にはすごく気分がいい日や、逆に悪い日があるのだろうけど、基本は毎日曇り空のような生活だろう。

 

僕は「空が灰色だから」という題名の、そういう明るくも暗くもない現実感のあるところに惹かれたのだと思う。

 

「下を向いて歩こう」というのもそういうリアルな雰囲気が漂うところに影響を受けてつけた名前だ。

この先ブログに書くような日々の生活では極端に良いことも悪いこともないだろうから、プラスやマイナスに極端にふれた名前を付けるのは何となく嫌だった。

きっとこの先あまり楽しいことも苦しいこともなくつまらない毎日なのだろうけれど、

前を向いて堂々と歩くことができなくても、下を向いて歩いていければよいなあと思う。